里親の先輩や里親家庭で暮らした子どもたちからの あなたへのメッセージ
なぜ里親になったの?
里親になってうれしかったことは?大変だったことは?
実際に里親家庭で暮らしてみてどうだった?…
里親の先輩や里親家庭で暮らした子どもたちからメッセージを頂きました。これから里親を検討している方は参考にしてください。
「プロフィール」
里親家庭出身 河原崎光希さん
(小学校6年生より6年間、里親家庭で暮らした経験を持つ。現在専門学校在籍)
小学6年で家出をして一時保護所に
私が小学1年生の頃、両親が離婚し、母と姉と私と3人の暮らしが半年ほど続いた後、母は再婚しました。新しい父の家に移りましたが、家族の関係性も変化し、家に居ることが辛くなる日々を過ごしました。転校した先の学校にもなじめず、どこにいても心が休まらなかった私は、小学6年生のある夜、リュックに着替えを詰めて家を飛び出しました。
ゆく当てもなくさまよって夜が明けそうになったとき、私は警察に保護されました。警察署には児童相談所の職員の方も来てくれました。私が「家に帰りたくない」ことを説明したところ、一時保護所に入ることになりました。
一時保護所では、これといって不満もなく、むしろ家に帰らなくていいことにホッとして、落ち着いて過ごすことができました。他の子どもたちとも仲良くできましたし、家ではできなかった規則正しい生活が新鮮でした。
里親宅での“普通の生活”
ここで3カ月以上過ごした頃、児童相談所の方から「里親さんのところでお世話になるのはどうかな?」と提案がありました。小学生ですから里親の制度のことなどは知りませんが、「別の家庭で暮らすのかな」ということは理解しました。そのほうがいいと思って、受け入れました。
里父、里母と初めて会ったときのことはあまり覚えていないのですが、実の親よりも年齢も上なので、安心感がありました。里父と里母からは「お父さん、お母さんと呼んでいいよ」と言われましたが、知らない人のことを急にそう呼べず、「おじさん、おばさん」と呼びました。
里親宅での生活は、家に帰ると「おかえり」と言われて、ご飯を一緒に食べて、お風呂に入って、寝る。「これが普通のお家なんだな」と感じました。こんなごく普通の生活すら、これまでしたことがなかったのです。
私は自分から自分のことを積極的に話すタイプではないので、里父とも里母に、改まってこれまでの境遇を話したりしませんでしたが、そのままの私を受け入れてもらえたと思います。この生活を重ねるなかで、だんだん心も落ち着いてきました。
新しい学校では、6年生の卒業も近い時期の転校生なので、「なんで引っ越してきたの?」「親は?」といろいろ聞かれました。私は嘘がつけないので、生まれた家を離れて里親さんのところから通っていると、子どもなりに説明しました。すると、「そうなんだ」で、それ以上は詮索されることはなかったです。帰り道が同じ友達もいて、以前の学校よりもなじみやすかった気がします。児童相談所の方は定期的に訪問してくださり、「最近どう?」みたいな、他愛のない話をしていました。
突然、学校にいけなくなった
そのまま近くの中学に進学し、穏やかな日々が続いていましたが、3年生になったとき、私は突然学校に行けなくなりました。学校で嫌なことがあったわけでもなければ、里親宅に不満があったわけでもない。なぜだかわかりませんが、部屋から出られなくなったのです。
いま当時を振り返ると、そのときまで自分なりに気を張って生きてきたのだと思います。環境が変わるたびに、敵をつくらないように、嫌われないように、がんばってきたのかもしれません。その気持ちが突然切れてしまったのだと思います。どう表現していいか迷いますが、いちばんしっくりくるのは「疲れた」という言葉でした。
里親は「突然どうしたのだろう」と戸惑ったと思います。あまりご飯を食べない日もあり、心配したと思います。それでも「なぜ学校に行かないの?」と問いただすこともなく、そっとしておいてくれました。私に時間をくれたのです。
私はそのとき、改めて過去のことを振り返っていました。母が離婚する前の家庭の様子、その後の環境の変化など、自分が過ごしてきた日々のことを思い返しながら、たいへんではあったけれど、母親もどうしようもなかったのかもしれないな、とそんな風なことをつらつらと考えていました。
中3の秋に入り、先生から「保健室でもいいから来ないか」とお声をかけていただきました。進路のこともあるので、このままではいけないと思い、少しずつ学校にも行くようになりました。先生方からは定時制の高校を勧められました。夜間だけでなく昼の授業も取れる大学のようなシステムの高校です。里父も里母も、私が選んだ進路には賛成、応援してくれて、その高校に進学することができました。
高校生になるとしっかり通学し、高1の夏からはアルバイトを始めました。貯金をしたいというのもありましたが、いまのうちから仕事を経験して、自分に合うものを見つけたかったからです。里母は「たいへんじゃない?」と心配しましたが「大丈夫だよ」と言って、卒業までがんばりました。
帰る実家があるという安心感
その後、奨学金をいただいてIT関係の専門学校に進学することになりました。システムエンジニアを目指すことに決めたのです。里父と里母は、私の選んだ進路に賛成してくれて、応援してくれました。いつも私がやろうとすることを応援してくれるのです。
専門学校への進学に当たり、学生専用の集合住宅に移ることになりました。里親宅では、6年生から、高校卒業するまで、6年ほどいました。引っ越しの時も「じゃあ、がんばって」と自然に送りだしてくれました。
振り替えると、中学3年の学校に行かなかった時期、動揺を見せずに私のことを見守ってくれたことに、いま改めて感謝をしています。私にはあの期間が必要だったのです。私のことを心配しつつも、普段と変わりない生活のリズムを維持して、落ち着いて過ごせるように配慮してくれたことがありがたかったです。
里親宅を離れてみると、ほんとうにそこが自分の実家だという気がします。1年目の夏休み、里帰りをしました。私にはこうして帰る家がある。この安心感があるから、いま将来を見据えて勉強できるのだと思います。また休みの時に里帰りするのを楽しみにしています。
子どもを迎えた幸せ
「プロフィール」
養育里親 宮坂康子さん
(東京都、2013年に里親登録。2016年より、男の子(当時2歳11ヶ月)を長期で養育中)
里親登録証は私にとって“母子手帳”
早く子どもがほしいとの想いが強く、26歳で結婚した矢先、「妊娠しづらい可能性がある」と医師から告げられました。体調を崩して病院を受診した時のできごとで、本当に思いがけない知らせでした。それから不妊治療を始め、望みを賭けていましたが、なかなか子どもは授かりませんでした。一方で、私も夫も里親制度や特別養子縁組のことを知っていたので、治療と並行して児童相談所に問い合わせるなど、情報収集も重ねていました。
年齢が上がれば、不妊治療の成功率は下がります。結婚10年目が近づいた頃には不妊治療によって心身ともに疲れていました。不妊治療は「成功するか、諦めるか」の二択、でも、血のつながりにこだわらなければ「子どもを育てる」望みが叶う-。自問自答した結果、「子どもと暮らして、子どもの成長に寄り添いたい」ということが私の望みであると気づき、治療を止めて里親になる準備を始めました。特別養子縁組も考えましたが、仕事を続けることも大切にしたいという思いがあり、長期の里親になれれば、と気持ちが固まりました。研修を経て里親登録できたときはとてもうれしかったです。私にとって里親登録証は“母子手帳”のような重みがありました。
会社には早い段階から働き方を相談
会社には里親研修を受ける前から事情を報告し、委託前後の働き方についても相談しました。各部署の上司にその都度「里親制度というものがありまして」と一から説明をするのはなかなか大変でしたが、子育て中の女性の先輩から「そういう選択肢もいいよね」と言っていただけました。
里親登録をして約3年後、2歳の子どもを迎えることになり、交流が始まりました。最初は乳児院の中で遊ぶ、次は外に散歩に出かける、そのうち我が家でお泊り、慣れてきたら長期外泊で1ヶ月ほど我が家に滞在しました。この間、会社の理解もあって、従来の制度にはないフレックスな勤務を認めてもらい、有休も柔軟にやりくりできるようにサポートしてもらえました。
交流期間を経て、我が家に来てくれた日のことは忘れもしません。お泊りのときは乳児院に帰るのを嫌がっていたくらいなのに、その日に限って、慣れ親しんだ職員の方々とのお別れを察したのか、靴を履こうとしません。そこで、担当職員さんが「散歩に行こう~」と誘いだし、外に出てそのままバスに乗ると、気持ちが切り替わったようでした。我が家の玄関を開けて迎え入れたとき「これからは一緒に生活するんだ」と思うと、こみ上げてくるものがありました。
社会的養護は「他人ごと」ではない
待ちに待った子育てが始まると、「しっかり育てなくては」と必死でした。最初の2ヶ月の記憶がないくらいです。やがて「この子は私が育てるのだ!」と囲い込みすぎてもいけないと思うようになりました。大人と子どもであっても、ひとりの人間対人間として向き合う関係が大切だと思います。
委託後の研修も充実していて、児童相談所の職員や関係機関の方がそれぞれサポートしてくれています。子育てに悩んだときは頼れる人がいるという安心感がありますね。共働きの子育ては楽ではありませんが、3人分の食卓を用意するとき、家の中を駆け回る子どもの姿を見るとき、そんな何気ないことに日々幸せを感じています。
社会的養護の子どもの背景はさまざまです。今は両親が揃っていても病気や事故などで育てられなくなることは、どなたにも起こりうることです。ぜひ「他人ごとではない」という思いでサポートしてくださる方が増えることを願っています。
「プロフィール」
里親家庭出身 Aさん
(高校3年生より5年間、里親家庭(ファミリーホーム)で暮らした経験を持つ。現在大学院修士課程在籍)
家を飛びだして居候先を転々とした
高校2年のとき、家を飛び出して友人宅を転々としていたことが学校に伝わり、児童相談所に連絡されました。担当の方との話し合いの折に、「同じ学校に通学を続けたい」と伝えたところ、「高校に通学できる地域で里親さんを探します。どんな里親さんがいいですか?」と訊かれました。私が「理不尽なことで怒らない、気を遣わなくていい、ジャイアンのお母さんのような人」と答えたところ、「思い当たる人がいる」とのことで、その里親家庭で暮らすことになりました。
おいしいご飯、温かいお風呂、きれいな布団。里親家庭に来てからの暮らしは、夢のようでした。思い返せば、自宅で暮らしていた頃は、下校して自宅のドアノブに触れるとき、いつも深呼吸をしていました。ドアを開けると母の暴言が飛んでくるかも。水道やガスが止まっているかも、空腹だけど食べるものはないだろう。そんな不安をまぎわらすために深呼吸をしていたのです。
ただ、心は開けずにいました。里親とあまり話さず、部屋にひきこもり、勉強もせず、家のお手伝いもしない。いい子でいたいと思っていたからからこそ、「まともに話したら、私が悪い子だとばれて見捨てられるかも」という不安な気持ちがありました。
「生きるのよ」という思いを受け取った日
遠慮しながら生活する日々でしたが、進路を考える折に、里親は私に大学進学を勧め、奨学金の資料も集めてくれました。大学進学時には満年齢で措置解除となりましたが、自立支援という形で、引き続き里親宅で暮らせるようにしていただきました。大学生になったら、それまでの内向き生活で溜めたエネルギーが外に向いたのか、夜遊びで遅く帰宅するようになりました。解放感を味わいながらも、どこかで幼少期から抱いていた「私なんていないほうがいい」という思いはぬぐえませんでした。
あるとき、私の生い立ちを講演する機会があり、心の内を少し話しました。その夜、里親から「今日のような話、一対一でしたかった」と言われ、そこで初めて、お互いに言いたくても言えなかったことを夜明けまでぶつけ合いました。「私なんていなくてもいい」という想いを口にしたとき、真剣な目で「もったいないよ!」と、私のいいところをたくさん、たくさん褒めてくれました。ずっと私を見ていてくれたのです。「あなたは生きるのよ」という里母の思いを真っすぐに受け止め、その日から私は、自分のことを見つめていく作業を重ねて、少しずつ変わっていきました。
団らんや夫婦の会話から家族を知る
自分が変わっていくにつれて「家族団らんってこういうことなんだな」と、幸せを感じることが増えました。日曜の夜はテレビを観ながらおしゃべり。夫婦で意見が食い違っても仲がいい。家族はこうやって作ることを知り、私もいつか家族を持ちたいと思うようになりました。
本棚にある料理や歴史の本を読み、里父から世界情勢の話を聞き、いろんなことを吸収しました。一度は就職しましたが、大学院で学び直すことを考えた時も相談にのってもらい、背中を押してもらいました。学業を修めたら、児童心理司として子どもの力になれる仕事をしたいです。
かつての私のような子どもには、安心できる普通の暮らしが必要です。多くは自分を表現する言葉を持たないので、丁寧に伝え合って、その子が心の奥で思っていること引き出してくださることが大事だと思います。里親は頑なだった私を見守りながら待ってくれて、根気よく話を聴いてくれました。そのおかげで、今の私があることを感謝しています。
幸せを感じる日々を大切に
「プロフィール」
養育里親 吉成麻子さん
(千葉県、里親歴14年。15人の里子を養育。現在はファミリーホームを運営)
血のつながらない家族の自然な姿
長女(現在大学生)が小学校1年生のとき、明らかに虐待を受けている同級生のお子さんがいました。その子のことが気がかりで、市役所を経て県庁を訪ね相談したところ、「里親制度がありますよ」と教えていただきました。
幼少期に父の仕事の関係でドイツに住んでいた時、ドイツ人の両親とアジア系のお子さんが暮らしているのを見ました。また、大学でアメリカに留学した際も実子がいて、養子のきょうだいもいるオープンなご家族にも接しました。県庁で里親制度の説明を聞き、そこで「新しい家族の形」という啓発ポスターを見たときに、血のつながらない家族の自然な姿に触れたときの記憶がよみがえったのです。
目の前に困っている子がいても、単なる“同級生の保護者”ではできることが限られます。しかし、里親になれば、一緒に住んでサポートできると夫に相談したところ、「あの子のためならいいのでは」と承諾してくれて、里親登録しました。
「いいことをしているね」という温かい声
お預かりするお子さんの事情はそれぞれ異なりますし、全員が虐待を受けたわけではありませんが、「親と離れる」という喪失体験のあるお子さんですので、一般的な子育ての常識が通用しないことも多いです。行政や専門家の方々、里親仲間のみなさんとの学び合いの機会を大切にしています。
一日が無事に終わって、子どもたちが眠ると、いろんなことがあった日でも「今日もみんなでご飯を食べて、いま無事に眠っている。あー良かった」とうれしくなります。当たり前のことに幸せを感じる日々を大切にしています。
里親になって変わったことは、周囲の方々に「とてもいいことをしているね」と言われるようになったことです。私は元々専業主婦でしたが、子育てを褒められることはありませんでした。もちろん、褒められることが目的ではありませんし、「そこまでじゃないけれど」とも思いますが、みなさんが「いいこと」と言ってくださることに時間を使えるのは幸せです。
変わらないことは、子育てをずっとしていること。子どもの成長を間近で見られることは喜びです。
お子さんには多様なサポートが必要
親と暮らせないお子さんを支えるには、里親家庭だけではなく、さまざまなサポートが必要です。行政の方、専門職の方、同じ里親のみなさんはもちろん、ご近所の方や「里親はできないけれど里親のお手伝いはできるよ」というお気持ちのある方の力をフルにお借りしています。児童養護施設の職員さんたち、子どもの心理に詳しい小児科の先生ともつながりを持ち、子どもたちと一緒に遊びに行ったり、相談に乗っていただいたりしています。「大丈夫、子どもはそういう行動をとるものよ」と励ましていただくだけで、ほっとします。
里親になる方はもちろん、そうでない方でも里親家庭をサポートできることはたくさんあると思います。ぜひ多くの方に親と暮らせない子どもへの関心を持っていただけると嬉しいです。